0077.オレンブルク防衛線
 ロシア帝国の中央アジア政策における拠点。1732年建設。
 16世紀、ロシアのイワン雷帝はカザン汗国(タタール)を征服した。しかし隣のバシキール人の猛烈な抵抗の結果、その後150年間は東南方向へのロシアの膨張は進まなかった。しかし18世紀前半に西モンゴル系のジュンガル王国に圧迫されたカザフ人がロシア皇帝に保護を求めてきたことにより変化が生じた。
 ロシア政府は現在のカザフスタン共和国にあたる地域を西・北・東の三方から馬蹄形に囲む形でオレンブルク防衛線を築き、その地にコサックを入植させた。ロシアの防衛線は万里の長城とは異なり、その内側を守るよりもむしろ外側に植民する拠点として築かれる。
 クリミア戦争での敗色が濃くなった1854年、ロシア政府は「クリミアの仇を中央アジアで討つ」方針を固め、オレンブルク防衛線を南で閉じる決定を下した。1860年から1880年代にかけ、ロシア軍はコーカンド、ブハラ、ヒバ汗国(現在のウズベキスタン、タジキスタン共和国に相当)を征服しながら東進し、他方カスピ海東岸からトルクメンの遊牧民を征服しながら西進した。二つの軍はヒバで合流し、オレンブルク防衛線はアフガニスタンを除く中央アジアを完全に包囲した。防衛線の南の辺がつながったことは、シベリアを迂回せずともカスピ海経由で中央アジアへの物資補給が可能となったことを意味していた。ロシアの次のターゲットがアフガニスタンであることは一目瞭然だった。
 これに対抗する大英帝国はただちにアフガニスタンを保護国とし、今日のアフガニスタンとタジクのあいだに人工的な国境が出現した。こうして「ヒンズクシ山脈までを帝国領とする」ロシアの野望は挫折した。

作成 2004.01.21/更新 2004.01.21
歴史
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