0086.香港
 今日の香港は、香港島(香港の中でもっとも大きい島)・九龍地区(九龍半島先端部)・新界(九龍半島の先端を除く部分)・島嶼部(235もの島がある)の4つに大体分けることができる。半島で一番大きな山でも958m、香港島ではビクトリア・ピークで553mが最高峰と、あまり起伏の激しい地域ではない。そのかわり屈曲に富む半島と島に加え、水深と底質に恵まれているため、良港としての条件をフルに備えている。とりわけ香港島と九龍半島の間は、南シナ海からの風波からも守られているため、世界屈指の良港として知られている。それゆえにこの地がアジア進出を狙う帝国主義の拠点として注目されたのは、至極当然のことといえる。
 ヨーロッパ列強の進出よりも以前に、すでにこの地は後漢の時代から漢人が進出していたと推定されている。この地域は越人(粤人とも。中国浙江省からインドシナにかけて分布した海洋系の民族で、南下した中にベトナム(越南)族がいる)が香木を栽培し、中国本土の公州方面へ向けて出荷していた港であった。そしてこの時代、漢王朝が香港とその周辺の領有を宣言し、この港を「香港仔(ヒョンゴンジャイ、「香港(香木の港)の子供」という意味)」と呼ぶようになった。現在の香港の南側に位置し、水上レストランで知られるアバディーン港のことを指す。この港の名が現在の香港全体を指すようになった。これが「香港」の名称の由来として際有力なものとなっている。この香港仔と筲箕(シャウケイ)湾は、元代にはすでに海賊の巣窟として知られていた(他にも長州島など、海賊の拠点は多数あった)。14世紀に広東人が、その後ハッカ(客家)族がこの地に移住した。また、4500年前の墓地がランタオ島で発掘され、香港の何箇所かで考古学的に意義のある岩彫刻が見つかっている。
 1834年、イギリスの初代貿易監督官ネーピアは香港の占領を本国に建議、1840年に開始されたアヘン戦争にイギリスが勝利し、1842年の南京条約により香港がイギリスに割譲された。1858~1860年のアロー戦争の結果、1860年の北京条約で九龍の市街地が加わり、1898年には新界および島嶼部が永久租借地になった。これらの戦いにより香港はイギリス植民地としての歴史を歩むことになった。
 1873(明治6)年8月27日の朝、日本の岩倉使節団は米欧からの帰途、香港に立ち寄っている。滞在期間は3日間。使節団の報告書『米欧回覧実記』によると、当時の人口は12万6051人(1997年の返還現在で約630万人)。聳(そび)え立つ山々に囲まれた市街に水道で水を引き、「用水充分ナリ」という。英国人は山から出る花崗岩の類で家々を作り、「皎白(こうはく=真っ白の意)ニシテ潔美ナリ」と『実記』は書いている。彼らの多くは小高い山の上に豪邸を建て、木々を植え、庭園をめぐらし、「清潔幽麗」とも表現している。『実記』は、街では漆器や陶器類を多く売り、金銀色に輝くヨーロッパ風の色合いはないと述べている。一行は朱色や漆の黒色あふれる街の風景に、中国まで帰ってきたという実感を持ったようである。
 19世紀末は香港貿易が中国の外国貿易の40%を占めていたが、20世紀に入ると上海や大連の進出めざましく、さらに反英ボイコットなどで一時期は10%近くまで落ち込んだ。そこでイギリスは貿易中心から対中国投資へと方向転換し、その結果香港は自由貿易港としての関税特権を活用して、金融の一大中心地として栄えるようになった。
 1937年、日中戦争の開始で上海の機能が停止したため、一時的に活況を呈したが、1938年、日本軍の広東省占領によって機能が停止。1941年12月8日、日本は香港侵略を開始。以後3年8カ月間、日本軍の占領下に置かれた。一時は175万にまで膨れあがっていた人口が、終戦時には60万程度になっていたといわれている。これは日本軍人による虐待、経済の破碇、食糧難などの過酷な生活を強いられたためである。1945年8月15日の日本の敗戦により、香港はただちにイギリス軍政下に置かれ、1946年には民政復活。イギリスの植民地となった。香港では今でもその日を記念し、8月の最終月曜日を「香港開放記念日」として祝い、土曜・日曜をあわせた3連休を実施している。
 その後も香港はめざましい復興をとげ、1947年には人口180万と大戦以前の人口を超えた。しかも、1950年までに中国本土の国共内戦を逃れて難民が押し寄せ、人口は236万と急増。香港政庁は地元産業の育成に務め、この結果香港は中継貿易港から中継加工貿易都市へと発展していった。1966年に文化大革命が起こると、香港でも左派系が呼応してデモやストライキが組織され、深刻な危機に陥った。1982年には1997年の返還をめぐる交渉が中英両国政府の間で開始され、1984年に共同宣言が調印された。その中では租借期限の1997年6月30日に、永久割譲された地域を含めた香港全域を一括返還し、返還後50年間は現在の資本主義体制を維持することが決められた。そして1997年7月、香港島・九龍・新界・島嶼部を含む全香港の主権が中国政府に返還され、155年にわたるイギリス支配が終焉した。1997年の中国返還以前の正式名称はBritish Colony of Hong Kongだったが、返還後は「香港特別行政区」がこの地域の正式名称となっている。

作成 2004.02.24/更新 2004.02.24
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