0162.スパルタ教育
 「厳しい教育」の代名詞となっている「スパルタ教育」。これは古代ギリシャの都市国家スパルタの教育方法から来ている。これは紀元前9世紀、リュクルゴスによって創設されたリュクルゴス制(土地の均等配分・長老会設置・民会設置・教育制度・装飾品の禁止・共同食事制を基本とする)のもと、強い軍事国家を目指す政策をとっていたためである。これはスパルタ市民の祖先が征服した先住民・アカイア人奴隷(ヘロイタイ)の反乱に備えるためでもあった。ヘロイタイに反乱の兆しが見られると、クリュプキアと呼ばれる処刑部隊が夜の闇にまぎれてヘロイタイの集落を襲った。紀元前5世紀のペルシャ戦争以後になると、男女とも軍事訓練ばかりが行われ、知的な教育は読み書きの簡単な練習のみとなっていた。
 その教育は生まれたときから始まっていた。新生児は部族長老の面接を受ける。赤子の産湯はワインを使い、痙攣を起こす者は虚弱児としてタイゲストス山に捨てられた。7歳になると国家の所有となり、家庭を離れ国家の集団養成所に強制入学。ほとんど裸同然で教育を受けていた。食事は1日1食であった。12歳からは本格的な肉体的訓練を受けた。軍事訓練の一つとしてヘロイタイから物を盗み、殺害することも奨励されていたといわれている。このように、彼らは質実剛健・忍耐と服従を身に付けていった。18歳になると民会の全会一致により成人としての仲間入りを果たした。
 20歳になり軍事に携わるようになると、将軍の管理下に置かれ、毎日15人単位の夕食会に参加して団結を図っていった。成人男子は10日に一度裸体での身体検査があり、肥満・色白は処罰の対象となった。戦場で臆病とみなされた場合、すべての共同体から排除され、あごひげの半分を刈り取られた姿で生きていかなければならなかった。もし戦死した場合、母親はその遺体を検査し、向こう傷が多ければ祖先代々の墓に、追い傷が多ければ共同墓地に埋葬された。結婚し、家庭を持つことは30歳になってはじめて許された。また、この時民会への出席もはじめて可能になった。ただし、食事は必ず15人以上の男子が集まってとらねばならず、いつでも軍役につける状態でいなければならなかった。60歳になって、ついに兵役義務から解放。長老会のメンバーになるための被選挙権がはじめて与えられた。
 女性の場合も、強い子供を産むために運動が奨励されていた。また、女らしさを消すために、裸のまま男性たちの行列に加わったり、男性たちの目の前で踊らされることもあったといわれている。女子は15歳ぐらいになって、親が決めた30歳ぐらいの男性と結婚していた。
 このような徹底的に贅沢を排除したスパルタでは、鉄貨の使用しか認められていなかったため、ペリオイコイと呼ばれる半自由民たちによって商業が行われていたにもかかわらず、海外貿易はあまり振るわなかった。
 しかし、スパルタ教育のおかげで軍事力は圧倒的な強さを誇り、ペルシャ戦争ではその威力を発揮。さらにその後はアテネに勝利し、全ギリシャの覇権を握るようになった。しかし、それにより海外の富がスパルタに大量に流入、突然の好景気により市民のあいだに貧富の差が生じた。そのため、質実剛健を基本とするリュクルゴス制が根底から揺らぎ、軍の団結力に亀裂が生じ弱体化していった。ついに紀元前371年、テーベとの戦いに敗れギリシャの覇権がテーベに移ると、スパルタの勢力は一気に衰退していった。

作成 2004.11.29/更新 2004.11.29
歴史
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