中国明の時代、鄭和(生没1371-1434)率いる船団が、時の皇帝・永楽帝の命により1405年から1433年にかけての計7回にわたり、東南アジア・インド・アラビア半島を経て、遠くアフリカのマリンディ(現ケニア領)にまで達する大航海を行なっている。
鄭和は雲南でムスリムの家系に生まれた。12歳のときに明軍に捕らえられ、永楽帝のもとに宦官として仕えるようになった。
永楽帝がこのような大航海をなぜ企図したのかには諸説あり、西の隣国ティムール帝国の成長を妨害するために西国と友好関係を結び挟撃を図ったとか、彼が帝位を簒奪した建文帝が逃亡したかもしれない南海を捜索するためなどと言われているが、はっきりとしたことは分かっていない。
第1回航海は1405年6月に蘇州を出発し、1407年初めにはカリカットに到達、同年9月に帰国を果たしている。62隻・総乗組員27800人あまりの大船団であった。船は最大で長さ173m・幅56mもあり、現在の500t級に相当するものである。ちなみにヴァスコ・ダ・ガマの船団は最大で120t級の船4隻・総乗組員170名、コロンブスの船団は最大で250t級の船3隻・総乗組員120名であったことからも、鄭和の船団がいかに大きなものであったかが窺える。この航海をきっかけに、それまで交流関係のなかった東アジア諸国が、明へ朝貢をするためにやってくるようになった。1411年7月までに計3回の航海が行なわれたが、いずれもほぼ同じ航路でカリカットまで到達している。
第4回目は1413年冬に出発、カリカットまではほぼ同じ航路をたどり、今度はさらにアラビア半島南のアデンにまで到達し、1415年7月に帰国した。第5回目の出発は1417年冬。アデン到達後、途中で分かれた分隊が、アフリカ大陸東岸のマリンディにまで到達し、ライオン・ダチョウ・サイなどの珍しい動物たちを連れて帰国している。1419年8月に帰国。
6回目の出発は1421年2月。朝貢にやってきた各国の使節たちを送り返し、1422年8月に帰国している。最後の航海は永楽帝の死後、孫の宣徳帝の命により1431年12月に出発。メッカにまで到達し、1433年7月に帰国。帰国してまもなく鄭和は死去している。その後は予算的事情と官僚からの反対などのため、このような航海は行なわれなくなった。これら一連の航海の正確な記録は、残念ながら国内の政争などのためにほとんどが失われてしまっている。
この大航海の特筆すべき点は、ヨーロッパの大航海時代よりも半世紀以上早い時期に行なわれたものであり、さらにそれらよりもはるかに大規模な船団によるものであったことである。また、ヨーロッパの大航海を苦しめていた、ビタミン不足による壊血病の予防策も講じていたといわれている。鄭和の船団に使われた船は通称「宝船」と呼ばれる3段式の船で、その最上段には50cmほどの盛土があり、航海中は野菜が植えられ、その野菜を食べることによりビタミンを摂取したと考えられる。
さらに航海記録などから、第6回航海の際に、実は世界一周を果たしているのではないかと考える説もある。それによると鄭和の船団は、アフリカ南端を北上し、現在のカリブ海沿岸やカリフォルニアなどにも到達していたのではないかと考えられている。この説が本当だとすると、マゼランが世界で初めて世界一周を果たすちょうど100年ほど前に、すでに鄭和が果たしていたことになる。 |
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