「禁酒法」は、1920年1月17日に施行された「アメリカ合衆国憲法第18条修正条項」(以後「修正18条」と略)の通称。提案した下院議員の名前から「ヴォルステッド法」とも呼ばれている。
本来アメリカは清教徒(ピューリタン)の影響が強く、禁酒運動は独立初期から存在していた。1826年にはボストンの禁酒協会が設立。1851年にはメーン州で州単位での禁酒法が初めて施行された。以後、20世紀初頭までに禁酒法が施行された州は全部で18。さらに宗教・倫理的主張や時代思潮など複雑な要素が絡み合い、1919年10月28日、全米単位での禁酒法制定、猶予期間を経たのち、1920年1月17日に全面施行となった。
この法律の違反者は、初犯でも罰金1000ドル・禁固6ヶ月という重い刑が科せられていた。しかし、修正18条には「合衆国及びその管轄権に属する全領土において、酒類の醸造・販売・運搬・輸出入を禁じる」と記載されているのみで、酒類の購入・飲酒自体は罪にならなかった。そのため、この法律はうまく機能しなかった。
制定から施行までの1年間に、富裕層は大量に酒を買い込んだ。また、隣国カナダで酒類は合法的に製造・販売されていたため、そこから持ち込まれる酒類を取り締まらなければならなかった。そのため、カナダの酒類はアメリカから買いに来た人々のおかげで爆発的に売れ、カナダ経済が大いに潤う結果となった。また、アル・カポネに代表される密造・密売に関わるギャングに買収された警察官や裁判官も多くいたが、これは彼らの待遇が良くなかったことも原因のひとつである。また、ギャング同士の抗争による治安の悪化を引き起こした。
また、禁酒法時代にニューヨークにあった15000軒の酒場が32000件にまで増え、1927年までには飲酒運転の逮捕者5倍、アルコール中毒による死者数は6倍にまで増えた。これは密造・密売により悪酒が蔓延したためともいわれている。1932年までにはギャングと取締官との戦いにおいて殉職者約500人、死者は合計すると2000人ほどにもなった。廃止までに販売された酒類は合計で53億リットルと推測されている。
禁酒法時代に終わりを告げるきっかけとなったのは世界恐慌。恐慌による景気の後退による財政難の中で、課税されていない密造酒・密売酒が大きく取り上げられるようになった。禁酒法廃止を公約とするフランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任すると、禁酒法が廃止の方向へと動き出した。1933年12月5日、修正18条を廃止すると定めた修正21条が議会で批准され、フーヴァー大統領が「高貴な実験」と称した禁酒法は、世紀の悪法という汚名を残し、14年に及ぶ歴史に幕を閉じた。この時ギャングたちは棺桶型ケーキをつくって禁酒法葬送パーティーを開き、廃止を惜しんだといわれている。
ちなみに州単位での禁酒法が完全に廃止されたのは1966年だが、現在でも地域ごとに禁酒が定められているところが存在する。 |
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