0010.織田信長・出生の誤解
ぽてちん様 からの投稿雑学
 織田信長は尾割の国主の子として生まれそれを土台に天下統一をなしたと思っている日本人が殆どであるが「これは間違い」。信長は尾割の国主の子ではなかったのである。
 尾割は現在の愛知県の西半分を占めているが当時はこの国は8つの郡に分かれていた。北部の4郡(丹羽、葉栗、中島、春日井)を尾割上4郡・南部の北部の4郡(海東、海西、愛智、知多)を尾割下4郡と呼んでいた。上4郡は緒田伊勢守家、下4郡は緒田大和守家が支配していた。信長の父は大和守の3人の「家老のうちの一人」なのである。
 そもそも尾割の正当な支配者は足利将軍家から守護に任じられていた斯波氏であり織田氏は単なる守護代(代官)に過ぎなかった。ところが下克上の中で斯波氏は実権を失い織田氏に取って代わられた。この守護代の織田氏よりも「家来」で主人を超えるほどに勢力を伸ばしたのが信長の父・信秀である。信秀は勝幡城を根拠地とし、後に愛智郡の那古屋に進出した。信秀は那古屋城に生まれたばかりの信長を据え、自分は古渡城を拠点とした。
 ここで1551(天文20)年、信秀の死のよって信長が跡を継いだ時、信長は8つの郡の内、海東・愛智の2群がせいぜいで、しかも愛智郡は完全には掌握していなかった。この理由は、ここにはまだ主人筋に当たる守護代・緒田大和守家が勢力を保っていたからである。つまり、信長は事実上4分の1の国主として天下取りのスタートを切った。
 彼は何よりもまず尾割の統一から始めなければならなかったのである。
[参考文献:KKベストセラーズ・井沢元彦著『神霊の国 日本』]


たろうの補足
その後の信長の活躍は周知の通り。彼は常識にとらわれない戦法、先見の明と天才的な政治力をもって天下統一を推し進めていった。
後に天下を治めた豊臣秀吉・徳川家康は彼の臣下であった。

投稿日 2004.10.20
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