時々「日本の首都を、東京から移転させよう」という動きが出ることがあります。
新しい首都の候補地の一つとして、広い土地がいまだに残る“北海道”が挙がることもしばしばあります。新しいところでは、1990年代に苫東地区へ首都を移転させようと、誘致運動が起こりました。
今回は明治時代に起きた、北海道遷都の動きを取り上げます。
首都を札幌に!1875年の遷都論
明治の世が始まって間もない1875(明治8)年1月20日、東京日日新聞に「札幌へ首都を移転させよう」という話が投稿されました。
投稿したのは、静岡在住の読者で、札幌に移転すべき理由として「首都が札幌に移れば、たくさんの人が北海道に移住し、北海道開拓と、ロシアの領土的野心に対抗する一石二鳥の効果を期待できる」と述べています。
この主張に対し、すかさず新潟の読者から「札幌は北緯の高度に位置し、寒気強く、陰気盛んなり。かかる辺地への遷都論は暖国生徒の空論なり(札幌は緯度が高く、寒くて良いイメージはない。暖かい地方に住む人の空想にすぎない)」との反論が寄せられました。
この反論に、東京の読者が「札幌は仏国パリの南四度に当たる。もっと北のシベリアでも人民は繁殖しており、視野を広げて論議すべし」と、さらに反論が寄せられました。
首都を旭川に!1890年の遷都論
1890(明治23)年1月23日、大阪朝日新聞が、旭川への首都を移転させようという論説を掲載しました。
要約すると「石狩国上川郡(現在の旭川市を中心とする地域)に離宮を設け、これを『北京』と命名する」というものです。
天皇の単なる避暑地だけではなく、「内地人民の移住興業の念を勧誘し、安心立名の郷とするに足る」都市機能を持たせようと呼びかけたものでした。
当時の「上川郡」は、大部分が広漠たる原野だったため、無限の可能性が大胆な提案を誘ったようです。
新聞に論説が掲載される前にも、上川離宮を造ろうという動きはありました
上川離宮を造ろうという動きは、一般人の新聞への投稿や、新聞記者による論説のような、単なる議論だけはありませんでした。当時の北海道庁長官が政府に建議し、正式に閣議決定されています。
結局、北海道の中心を旭川に取られることに反対した、札幌や小樽によって立ち消えとなってしまいました。
※上川離宮予定地に実際に訪れたようすを、YouTubeでも取り上げています。ぜひご覧ください。
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