政治を丸投げして将棋の名人になった徳川将軍・家治

 中学校の歴史の授業でも習いますが、江戸時代は徳川家が将軍職を務めていても、政治の実権は老中が握っていた、という時代がありました。将軍がまだ若かったり、病弱だったりといった理由で老中を中心に政治を行なっていた、という場合がほとんどです。

 しかし、10代将軍・徳川家治のように、単に老中の田沼意次に政治を丸投げしていた、という例もあります。

 では家治は、政治を老中に丸投げして、自分はふだん何をしていたのでしょう?

将軍様は将棋名人だった!

 家治も将軍職に就いたころは、みずからも政治に携わっていましたが、次第に田沼に任せるようになり、自分では政治を行なわなくなりました。

 田沼が幕府の政治の中心的役割を担っていたころ、家治は絵や将棋に熱中していました。

 特に将棋は七段という、今でいうアマチュアの高段位を有し、時の名人たちとも対戦したと伝えられています。まわりが家治に少し手を抜いていたので、実際には七段ほどの実力はなかったのではないかともいわれていますが、それでも実力は十分にあったようです。

 また、私生活での家治は、質素倹約で知られる8代・徳川吉宗以上のものであったといわれています。特に、大奥の経費は、大幅な削減を行なった吉宗のころより、さらに3割削減しています。

家治の死と田沼意次のその後

 田沼意次は、株仲間の結成や鉱山開発、海外との貿易の拡大など、家治のもとで重商主義的な改革を行い、幕府の財政を見事に立て直しました。

 その反面、賄賂などの不正行為が増えます。そのため田沼は、家治が亡くなると同時に失脚してしまいます。

 田沼意次は、失脚から2年後に、70歳で亡くなりました。