現在「北海道」と呼ばれている土地は、江戸時代まで「蝦夷地」と呼ばれていました。
では、どのようにして「蝦夷地」から「北海道」になったのでしょうか?
北海道の名付け親・松浦武四郎
それまで蝦夷地と呼ばれていた土地を「北海道」と名付けたのは、伊勢国(現在の三重県)の出身で、幕末の探検家であった、松浦武四郎(1818-1888)です。
蝦夷地のことによく通じていた彼は、1868(慶応4)年、明治新政府が、蝦夷地経営のために設置した箱館裁判所(のちに箱館府→開拓使と改称)の、政策立案にあたる在京の判事に任命されました。
同じ年の7月、箱館府が開拓使になったとき、武四郎は開拓主典、ついで開拓判官(今でいう事務次官や局長級の高級官僚)となりました。
新地名の候補として出された6つの案
武士郎が開拓使で手がけた仕事が、蝦夷地の道名・国名・郡名の撰定でした。
道名については、1869(明治2)年7月17日、『蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付』を上申し、以下の6つの案を、歴史的、地理的根拠とともに示しました。
- 日高見道
- 北加伊道
- 海北道
- 海島道
- 東北道
- 千島道
たとえば「北加伊道」を提案したのは、「土地の人(アイヌ民族)たちは、自分たちの住んでいる所を『カイ』と呼び、互いを『カイノー』と呼んでいる。『蝦夷』の字を用いるが、それは人々の髭の長さからきているのであり、エビのイメージで考えてはならない」と述べています。
また「東北道」については、「古典に典拠を求めることはできないが、新井白石の『蝦夷志』に、蝦夷は東北大海中にある、と紹介されている」と書いています。
「千島道」については、西行や顕輔、清輔等の和歌も引き合いに出して論じています。
政府により「北海道」が採用される
その後、政府による審議を経て、1869(明治2)年8月15日、太政官布告第七三四「蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」により、蝦夷地を『北海道』(「加伊」を「海」と改字)と改称、これを十一カ国に分割、さらに国を分割して郡を設けると、定められました。
また武士郎は、国名・郡名についても詳細な案を出し、開拓使によって多少の変更はされたものの、ほぼ彼の原案通りに採択されました。
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