紀元前150年ごろ、ビザンチウム(現在のトルコ・イスタンブール)のフィロンというギリシャ人の数学者が、著書『世界の七つの景観』の中で7つの建造物を取り上げたのが、元祖「世界の七不思議」です。
それらは、マケドニアのアレクサンダー大王が、東方へ遠征してから、たくさんのギリシャ人たちが訪れた観光地でもあります。
その後も、数多くの七不思議が登場しましたが、今回は、フィロンが紹介した、元祖・世界七不思議を見ていきましょう。
1.エジプトのピラミッド
フィロンが紹介した七不思議のうち、現在でも残っている唯一の建造物です。そして、フィロンが選んだ、最古の建造物でもあります。
ギザにある三大ピラミッドはクフ王・カフラ王・メンカウラ王(3人ともエジプト古王朝・第4王朝の王)のものです。クフ王のピラミッドは、紀元前2550年ごろに造られました。
建てられた当時は、表面が真っ白な石灰岩で覆われていました。また、頂上には金の板で包まれた黒御影石に、ヒエログラフ(文字)が刻まれたものがのせられていました。
底辺は、ほぼ正確に東西南北に向いた正方形になっており、その長さはほぼ230mです。
完成当時、146.7mの高さがあり、この高さは、19世紀末、フランスのパリにエッフェル塔が建てられるまで、4400年以上、世界一の座に君臨していました。
ピラミッドがなぜ建てられたかは分かっていない
ところで、なぜピラミッドは建てられたのでしょうか?
王の墓として建てられたのではないか、という考えが一般的ですが、実は王の墓であるはっきりとした証拠はありません。
ナイル川が氾濫する時期に、農作業のできない農民たちへ仕事を与えるため、ピラミッド建設が行なわれたという、公共事業説もあります。
2.バビロンの空中庭園
バビロンの空中庭園は、紀元前600年ごろ、バビロニア帝国の王ネブカドネザル2世が、メディア(現在の北イラン)から招いた王妃アミティスのために、王妃の故郷に似せて、宮殿の一部に造った庭園です。
1辺125mの正方形の土台が据えられ、4辺からそれぞれ5段のテラスが築かれ、それぞれの段が庭園になっていました。
植物は、当時の分類に従い、整然と植えられていたともいわれ、植物学に関心がもたれていたとも考えられています。高さは25mあったと推定されています。
今でも分かっていない、水のくみ上げシステム
植物を維持管理するため、近くのユーフラテス川から水がくみ上げられていましたが、どのような仕組みで行なわれていたかは、分かっていません。
3.オリンピアのゼウス像
フィロンが紹介したゼウス像は、紀元前7世紀ごろから整備が始められ、紀元前470-前456年ごろに完成した、ギリシャ・オリンピア最大の神殿・ゼウス神殿にまつられていました。
像は紀元前430年代、アテネのパルテノン神殿を設計した彫刻家のフェディアスが製作しました。
高さは12.2m(台座部分を含む)あり、古代ギリシャで最大の彫像でした。
ゼウス像はどのようなものだった?
ゼウス像の詳細は、2世紀後半にパウサニアスが『ギリシャ案内記』の中に残しています。
それによると、像は木でできており、体の露出部分は象牙、衣服には黄金がはめられていたとのことです。
ゼウスは、オリーブの枝をあしらった冠をつけていました。また、右手に黄金と象牙でできた勝利の女神ニケ像を、左手には錫杖を持ち、その先端には鷲が止まっていたそうです。
4.エフェソスのアルテミス神殿
アルテミス神殿は、古代イオニア地方(現在のトルコ共和国内)の港湾都市だったエフェソスに建てられました。当時の建築としては、かなり大きなものだったようです。
紀元前560-前546年ごろに建てられた最初の神殿は、55×115mの広さに、高さ19mの大理石の円柱を127本配したものでした。
しかし、この神殿は紀元前356年、ヘロストラトスが「後世に残るような悪事をしたい」という理由から放火し、焼失してしまいます。その後、すぐに再建されました。
マケドニアのアレクサンドロス大王は、遠征の途中、再建中のアルテミス神殿を見ます。
大王は、その素晴らしさに心を奪われ「エフェソスの人々が、私の名前でこの神殿を寄進させてくれるなら、建立の費用を、すべて受け持っても良い」と申し出ますが、人々は断ったというエピソードも残されています。
神殿は熱心なキリスト教徒の皇帝によって破壊された
その後、エフェソスをローマが支配するようになっても、神殿は存在し続けました。
しかし、5世紀になり。ビザンティン(東ローマ帝国)の皇帝で、熱心なキリスト教徒だった、テオドシウス2世により破壊されてしまいました。
5.ハリカルナッソスのマウソロス王の霊廟
マウソロス王の霊廟は、エーゲ海に面したギリシャの都市、ハリカルナッソスにありました。この都市は、有名な歴史家であるヘロドトスが生まれた地でもあります。
紀元前362年ごろ、この地を治めていたマウソロス王が、自分で計画を立て、王の死の直前に起工されました。
すべて大理石で造られていた、荘厳な霊廟だったそうです。そこから、ヨーロッパでは、今でも壮麗な霊廟のことを「マウソレウム」と呼んでいます。
建物は4層構造で、1階部分上部には、ギリシャ人とアマゾンの戦いを描いた彫刻帯が、2階部分は36本の円柱が並び、中央にマウソロスの遺骨を納めた霊室がありました。
頂上部分には、24段のピラミッドがあり、さらにその頂上、霊廟のいちばん上には、4頭立ての馬車とマウソロスとアルテミシア(マウソロスの王妃)の、高さ3mの彫像が飾られていました。
建物全体の高さは34m、広さは32.57m×26.39mありました。
要塞の建材に使われてしまった霊廟
マウソロス王の霊廟は、12世紀までは、ほぼ原形をとどめていました。しかし1402年、この地を占領した聖ヨハネ騎士団によって、解体されてしまいます。
解体された石材は、聖ヨハネ騎士団の要塞の材料として、使われてしまいました。
6.ロードス島のヘリオス巨像
エーゲ海の南東部に位置するロードス島。かつてこの島の港に、高さ36m・胴回り18mもある、巨大なヘリオスの青銅像がありました。
ヘリオスは、ロードス島の守護神です。紀元前304年、この島がマケドニアの攻囲に耐え抜いたことを記念して建てられました。
建造に12年の歳月をかけ、紀元前292年ごろ完成しました。港の2つの岬をまたぐようにして建てられ、その下を船が通っていたと、後世いわれるようになりましたが、実際そのようなことはありませんでした。
七不思議の中で、もっとも短命だった
このヘリオス像は、紀元前227年の地震で、ひざから下を残して倒壊してしまったといわれています。七不思議の中で、もっとも短命な存在でした。
その後、約800年間、像は倒れたままになっていましたが、672年にこの島に侵入したイスラム軍が、残骸をユダヤ商人に売り払い全て運び去ってしまったため、現在は跡形も残っていません。
7.アレキサンドリアの大灯台
現在のエジプト・アレキサンドリアのファロス島の東端から1.2kmほど離れた岩礁の上に建てられた灯台です。プトレマイオス1世の命令で、紀元前300年ごろに建造が始まり、プトレマイオス2世の時代の紀元前250年ごろに完成しました。高さは約120~140mあったといわれています。
大灯台はどのようなつくりだった?
ユフスは『入門書』の中で、灯台のようすについて詳しく書いています。
それによると、灯台は3層に分かれているとのこと。下の層は正方形の四角柱で高さ71m、中央の層は八角形で高さ34m、上の層は円柱形で高さ9mあります。その上に円錐状の屋根があり、頂上には青銅製の巨大な像がありました。
ファロス島と灯台は堤防でつながれていました。堤防の下には水道があり、送られてきた水は、灯台の下に貯められました。
もちろん、灯台としても機能していて、重油を燃やして光をつくり、それをブロンズ製の反射鏡に集めて海上を照らしていました。さらに反射鏡は回転式で、360度・全方角を照らしました。その光は56km先でも確認することができたといわれています。
ピラミッドの次に長く残った七不思議
この灯台はその後も長く使われ続けます。フィロンが挙げた七不思議の中で、ピラミッドの次に長く残った建物となりました。
しかし、このアレキサンドリアの大灯台にも、終わりの時がやってきます。
796年に起きた地震で、灯台はついに破損してしまいます。さらに、灯台の下に宝が眠っているという噂が広まり、人々が争って灯台を解体してしまいました。
一度、灯台を修復しようと試みられましたが、肝心の反射鏡を割ってしまい、結局、再建を断念してしまいます。
灯台の跡にはモスクが建てられ、1477年ごろにはカイト・ベイ要塞として改造され、大灯台は跡形もなくなってしまいました。
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